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2011年12月24日 (土)

3.11

今さらではありますが、3月11日のことを振り返ってみます。地震のあった11日午後はいつものように都内の勤務先にいたのですが、結果から言うと大きな被害もなく、少し日常と違う日が続いたにすぎません。被災地の方から見るとどうということもない内容なので、これまで書くことに逡巡していました。ただ、やはりこの日に何をしていたのか、何を思ったのか、その後何があったのか記録し、教訓として自分の記憶にとどめることにします。

2011年3月11日金曜日、午後2時ころから勤務先新館の会議室にこもって、デリケートな仕事をしていた。この仕事、前日から続くかなり神経を使う仕事。やっと半分を過ぎ、集中力も続かなくなり一息入れようかと思ったところ、微妙な揺れを感じた。ああ、少し揺れているな。震度1から2くらいの感じ。「すぐに納まるだろう」などと考えているうちに、徐々に揺れが強くなってきた。この揺れは何かおかしい。

筆者は情報系Webサイトのシステムの仕事をしているため、どこかに被害が出るような地震なら、すぐに隣の建物にある職場に戻らなくては。自分のところのシステムにも万全を期さなければならないし、なにより情報を迅速に伝えることが重要な仕事になります。まずは、何が起きているのか状況を確認したい。閉じこもっていた会議室の向かいの部屋にテレビがあるはず。ほかの部署ですが、こういうときですのでお邪魔することにした。会議室の資料を片付けないままですが。テレビを見るとNHKが地震の速報を伝えはじめている。落ち着いて情報を聞きたいのだが、まだ揺れが納まらない。納まらないどころか、強くなってくる。書架のすぐ脇に立っていたので、無意識のうちに手で書架を押さえていた。いや、何かにつかまっていたいと思ったのかもしれません。それにしても、この揺れはただ事ではない。テレビでは大きな揺れが発生したこと以外、ほとんど状況はつかめなかったが、まずは職場に戻ろう。建物や同僚たち、そしてシステムは大丈夫なのか。すぐに先ほどまでいた会議室に戻り、資料を紙袋に戻して管理者に返す。きわめて慎重に扱わなければならない資料なので、放り出していくわけにはいかない。

まだ揺れが続く中で、会議室を飛び出し、階段を2フロア分駆け上がり、隣の本館とつながる渡り廊下(建物をつなぐ橋)を目の前にして、我に返って立ち止まる。この渡り廊下は、「大きな地震には弱い」と張り紙が掲出されていた場所だ。そして、橋の向こう側の防災扉が閉まっている。地震があると自動的に閉まる仕組みだっただろうか。それとも本館側に何か異常が発生して閉まったのか。ここを渡って大丈夫なのか。建物の外から回るには、階段を4階分降りて、外をわってまた駆け上がらなければならない。時間がもったいない。とにかく急ぎたい。まだ揺れている気がするが、一か八か渡り廊下を走ることにした。20メートルほどの渡り廊下を駆け抜ける。橋は何事もなかった。防火扉を開けてみる。よかった開いた。建物も無事のようだ。

職場に駆け込むと、やはり騒然としている。けがをした人や、建物や什器などの被害は無いようだ。まずは一安心。次はシステム。平日の昼間なので、職場には十分な数のメンバーがいた。基本的な動作確認をすでに済ませていて、もう少し詳細な稼働状況を調べているところのようだ。大丈夫。システムに重大な異常はなさそう。ただ、心配していた携帯キャリアの回線はすでにパンク状態に陥っているようだ。電話はつながらないし、ネットもつながらないようだ。

職場のテレビでは、大津波警報の発令を伝えている。東北地方が震源であることを知った。東京でこれだけの揺れだから、震源に近いエリアでは相当の被害が出ているだろう。震度7の地域もあったようだ。大津波も発生しそうだ。これは大変なことになると気を引き締める。

日ごろから整理整頓の行き届いていない筆者の机は、最初の揺れで積み上げていた資料の山が崩れたようで、机の脚元に紙が散乱していた。誰も他人の机を片付ける余裕はなかったようで、それは致し方ないところ。散乱した資料をかき集め、机に戻し席につく。直近の対策としては、これから起こると予想される事態を想定すること、そしてそれが悪い事態へ転ばないよう対策をとること。もう少し長いレンジでいうと、人手の確保。翌日からの土日を含め、長い時間の人海戦術が必要になるだろう。さらに言えば、帰宅の足の確保。社員は無理がきくにしても、スタッフに安全に帰宅してもらう足を確保できるか。本当はさらに長いレンジのことも考えなえればならないところだが、この時点では全く考慮の範囲外。そこまでの余裕はなかった。個人的な事情で言えば、使い捨てコンタクトの替えがなく、眼鏡も持ってきていない。日常的に服用している薬も予備がない。そんなこともあり、事情が許せば一度は帰宅したい。

さらに言えば、横浜の自宅や家族は大丈夫なのか。電話が通じるとは思えないので、とりあえず妻の携帯にメールを送っておく。築50年に近い群馬県の実家も不安。実家近くの勤務先にいるはずの妹の携帯にも同様のメールを送信。どちらも携帯からは送れなかったので、会社のメールから送信した。

そうこうしている間に、テレビの画面には現実とは思えない映像が次々に飛び込んでくる。大津波に襲われる東北地方の沿岸部。ビルから煙を吹き出しているお台場のビル。炎上する工場。現実として受け止めなくてはならないのだけれど、特撮か何かを見ているような不思議な感覚でした。とにかく津波から逃げて、一人でも多く高台へ避難して、流される車の中に人がいないでいて、願うこと祈ることしかできず、何とももどかしい気持ちでした。自分にできることは、災害時だからこそ重要な業務を担う立場として、部員もスタッフもシステムも無事に乗り切ること。それだけです。

急ぎでない業務をストップし、地震と津波の情報に集中して乗り切ることに決め、スムーズとまではいかないものの、大きな支障のない範囲で当日を乗り切ることができたと思います。

当日の夜に向かい、徐々に仕事の方も落ち着きを取り戻して、少し無理をすれば徒歩で帰れる人には帰宅を促すとともに、自宅にいて夜の出勤予定の人には自宅待機を要請しました。交通機関の乱れが回復しそうもないうえに、土日の人の手当も考えなくてはいけないため。その代わり、帰宅のめどが立ちそうもないメンバーには申し訳ないけれど深夜の待機をお願いしました。ほかのメンバーは、各自の判断にゆだね、帰宅の足が確保できそうな人は帰宅、無理そうな人は社内で待機。

さて、自分はというと…。日常の通勤経路は都営浅草線から京急線で横浜方面というルート。横浜駅に出られれば徒歩で何とかなる範囲。しかし、JRが全面停止した影響で、京急も終日の運休を発表済み。帰宅が絶望的ななか、メトロが部分的に復旧しつつある情報、そして東急も運転再開に向けて確認作業をしているとの情報が入りました。コンタクトレンズや薬の都合もあり、できるものなら帰宅したい。がんばれ東急。

夜までの間に自宅の妻や地元の妹とはメールで連絡がとれ、無事を確認するとともに、自宅や実家にはおおきな被害はなさそうなことがわかりました。とりあえず自分の心配だけすれば良い状態になりました。

銀座線と東急の運転再開の情報を確認した23時過ぎ、帰宅することに決めました。後に残るメンバーには申し訳ないですが・・・。

社を出ると、道路は軒並み渋滞。こんなにたくさんのクルマがどこから出てきたのかと思えるほど。これでは緊急車両の通行にも支障が出るでしょう。首都高の入り口になぜか神奈川県警のパトカーがいるのを見ました。緊急の要人送迎か、物資の運搬先導か、病人か血液など医療関係の先導か、いずれにせよ何らかの業務からの帰りでしょう。

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▲ 23時過ぎの都内

情報によると、銀座線は人があふれていて渋谷駅での東横線への乗り換えがスムーズにいっていない模様。それならば、渋谷は避けたほうが良さそう。目黒線を使えば渋谷を通らずに横浜方面へ抜けられる。そう考え、新橋から徒歩で内幸町へ。三田線から目黒線へ直通でいけるはず。しかし、内幸町で駅員に尋ねると三田線は三田から先が不通とのこと。それでは目黒線へは行けない。やむなく新橋へ引き返し、今度は溜池山王まで銀座線に乗り、そこから南北線経由目黒線を目指す。混雑した銀座線に乗り2駅で溜池山王。あとから考えれば、内幸町から溜池山王まで歩けばよかった。溜池山王から白金高輪行きの電車に何とか乗れ、運のよいことに行き先変更でその電車は日吉行きに。これで少なくとも日吉まではいけることがほぼ確定。目黒を過ぎると徐々に人も減ってきて、神奈川県に入る頃には日常の状態に。助かりました。日吉で東横線に乗り換え、車内はさらに空いてきて、座っていられる状態に。東白楽で下車、ここからは徒歩で東神奈川へ向かい、駅構内を経由して、さらに海側にある自宅マンションへ向かうルート。

東白楽から東神奈川へ向けて県道を歩き始めると、道路には少しずつヒビがあったり、植え込みが変に盛り上がっていたり、地震の影響が見えました。特に東神奈川のサティのあたり、揺れが激しかったことをうかがわせる状態でした。JRの東神奈川駅を通過すると、JRは後に批判を浴びることになるとおり、シャッターを閉め切って駅への入場をふさいでいました。京急の線路沿いを歩いていると、翌日の運行再開への準備でしょう。空の電車が運転を始めていました。自宅近くでは、24時間営業の吉野家が閉店中。輸送の問題でしょうか。

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▲ 東神奈川サティ付近のひび割れ(左)、シャッターと閉ざしたJR東神奈川駅(右)

自宅近くの第一京浜では、おそらく都内から自宅へ徒歩で帰宅を試みている人がぞろぞろと移動中。なんだか楽に帰ってきてしまって、申し訳ないような気持ちです。午前1時半頃に自宅に到着。妻と顔を合わせ、一息。テレビで引き続き情報を見ながら、いつの間にか眠りに落ちていました。といっても12日未明、長野県での強い地震による緊急地震速報に驚いた時点ではまだ起きていましたので、ろくに睡眠時間はとれていませんが。

翌12日の朝は、土曜日ですが臨時に出勤することに。9時の会社到着を目標に早めに自宅を出発。京急は運転を再開していますが、品川止まり。都営線方面には直通してくれません。この日の電車がどれくらいの混雑度だったかよく覚えていないのが正直なところ。品川からはやむを得ず徒歩で第一京浜を移動開始。いつも通勤ウォーキングをしている範囲なので勝手知ったる場所ですが、朝歩くことはまずないエリア。しかも歩く人が多すぎ、車道を1車線歩行者向けに開放していました。途中、札の辻交差点では、先端が曲がったという東京タワーをじっくりと観察。そういう目で見れば、そう見えないこともない感じです。結局品川から大門まで歩き、大江戸線に乗って会社へ。

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▲ 品川から泉岳寺の間、第一京浜(左)、札の辻交差点から見た東京タワー(右)

この時点では地震そのものの被害に加え、やはり大きな被害があった津波に目が向けられていて、実は既に深刻化していたはずの福島第一原発の事故にはさほど報道される情報量もさほど多くなかったように記憶しています。システムが安定していればさほど仕事量は無いと予想していましたが、この日は一日じゅう、いろいろな試みについて調整したり、準備したり。そこにいることで責任を果たせたように思います。やはりこういうときは、電話でつかまることより、そこに顔を出していられることが安心を呼ぶことを実感。出社してよかった。帰りも浅草線はまだ不通。JRが再開していたので品川までJR、そこから京急に乗り換えて帰宅。翌日の日曜日は、きょうの自分の役割をほかの人に代わってもらい、わたしは翌週に備えて自宅待機。

14日月曜日、ここからは通勤に難のある期間が始まりました。東電、そして政府からの節電要請により、電車は間引き運転。浅草線への直通運転はとりやめ。品川からはJRに乗り換えて通勤することに。16日頃から直通運転が再開されたものの、ダイヤは土日なみの間引き状態。これでは通勤時間帯の乗客をさばくことは困難です。筆者の場合、通常は特急を利用するところを各駅停車に切り替え、混雑を避けることにしました。通勤時間が長くなるのは覚悟のうえです。結局4月4日(月)に朝の時間帯が通常ダイヤに戻るまで、通勤難が続きました。

以上、当日の記憶とメールやツイッターの記録をたよりに、当日とそれ以降に身の回りにおきたことをまとめてみました。発生から9カ月を経過して、まだまだ原発の事故による影響は先を見通せません。地震そのものや津波で被害を受けた方々の生活が元に戻るには長い時間がかかるでしょう。亡くなられた方、そしてご家族の皆様にお悔やみ申し上げます。一日も早く、被災された方々の生活が復旧できるよう、どんな支援ができるかわかりませんが、協力していきたいと思っています。

2011.12.24 at 00:00 日記・コラム・つぶやき |

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